in the blue shirt、okadada、長濵よし野「想像の体操~わたしの地層を考える~」受講レポート

長濵よし野(ながはま・よしの)

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「わたしの地層」を育てる――偶然と欲望のインプット論

Art Center NEWで行われている〈横浜✧カルチャーセンター〉は、高島鈴と長濵よし野がコーディネーターを務めるスクールだ。今回は、2026年7月18日に、長濵よし野が音楽家のokadadaと有村崚(in the blue shirt)を迎えて行なったセッションをレポートする。

in the blue shirt、okadada、長濵よし野「想像の体操~わたしの地層を考える~」受講の様子
in the blue shirt(右)、okadada(左)。
in the blue shirt、okadada、長濵よし野「想像の体操~わたしの地層を考える~」受講の様子
長濵よし野。

本日のテーマは「想像の体操~わたしの地層を考える~」。誰もが容易に表現=アウトプットできる時代だからこそ、その手前にあるインプットについて考えよう——長濵のそんな導入から始まった回だった。しかし議論は早速、意外な方向へ進んでいく。okadadaと有村は、そもそもインプットとアウトプットを別々に考えること自体が難しいのではないかと語りはじめた。二人曰く、「インプットとアウトプットは癒着している」。

okadadaはこう説明する。「DJとは、完成した作品を再生する仕事ではない。目の前のフロア、その日の空気、その場にいる人々によって、同じ曲がまったく違う意味を持つ。曲を流した瞬間、作った本人も、自分自身も予想しなかった受け取られ方が起きる。家でひとりで音楽を聴いているだけでは生まれない出来事が、クラブでは起こる。だからこそDJは、作品をアウトプットしているのではない。音楽を流しながら、その場で新しいインプットを受け続けている」。

有村もその感覚に共鳴する。「音楽には人をある方向へ導く力がある。ゆえにDJを指揮者のように捉えることもできるし、実際にそういうDJもいる。けれども、okadadaのDJは、観客をコントロールすることを目指していないように見える」と。クラブでは、演者と観客という境界そのものが曖昧になる。100人いれば100通りの目的で集まっている。それでも、ごく一瞬だけ全員の意識が重なる瞬間がある。その偶然のコンセンサスこそが創造なのだ——okadadaは、そう主張しているように感じられた。

筆者は、ここで語られていたのは「作品を作る」というより、「場が作品を作る」という感覚だと受け取った。そして、その場を創造性へと導いているのが、三人の議論が自然と収束していった「偶然」というキーワードである。

okadadaはそれを、「ランダマイズ」という言葉で語る。自分では選ばない状況を、意図的につくること。本も音楽も最後まで読み/聴き終えることにはこだわらない。興味を持ったら少し触れ、また別のものへ移る。それをジャンルを越えて繰り返していく。そういったランダマイズが最も起こりやすい場所が、クラブなのだという。フロアでは、自分なら決して選ばない音楽を何十分も聴くことになる。二人は「正直、早く帰りたいなと思うこともある。でも、それがいい」と笑う。強制的に自分の外側へ連れていかれる経験こそが、新しい感覚を育てるからだ。

話は創作論へも接続していく。有村は「何か作りたいけれど、何を作ればいいか分からない」と相談を受けることがあるそうだ。しかし重要なのは作品そのものではなく、「どんな傘を差すのか」、つまりどんな制約や視点を設定するかだと話した。この発想は、okadadaの言う「ランダマイズ」とも響き合う。たとえばokadadaが出演した幡ヶ谷Forestlimitのイベント〈ぽんぽこ山〉では、選曲に「たぬき」というテーマを設定するだけで、聞きなれた曲を「これはたぬきかどうか」というまったく違う基準で新鮮に聴くことができる。作品そのものではなく、どんな枠組みで受け止めるのか。想像力とは情報量の問題ではなく、負荷のかけ方の問題なのである。例えば旅先でもサイコロを振って降りる駅を決め、その街を歩いてみる。そんな小さなランダマイズだけでも、自分では選ばなかった世界に遭遇する。想像の体操とは、自らの外側へ出る技術でもあるのだ。

in the blue shirt、okadada、長濵よし野「想像の体操~わたしの地層を考える~」受講の様子
講座の様子。

前半の議論を受け、後半ではそれぞれの「地層」、つまり自分を形づくってきた影響源が紹介された。長濵よし野が挙げた作品は、上橋菜穂子のファンタジー小説『獣の奏者』、馬場あき子の評論『鬼の研究』、そしてアニメーション映画『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』。okadadaはUlticut UpsのミックスCD『PARTY GROOVE』、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』、そして黒澤明の映画『七人の侍』。有村はテレビ神奈川製作の番組『sakusaku』、漫画家のうすた京介作品、そして物理学者のリチャード・P・ファインマン。

並べてみると、そのラインナップは驚くほどバラバラである。しかし印象的だったのは、「何を好きか」ではなく、「それがきっかけで何が起きたか」が語られていたことだった。長濵は『鬼の研究』によって、自分を周囲とは異なる性格や嗜好を持つ「鬼」として理解できたという。okadadaは『七人の侍』をきっかけに、カノンとしての古典の面白さに導かれた。有村は、自分が昔から一貫して「知的だけれど、どこかふざけている人」に惹かれてきたことを発見する。つまり、「わたしの地層」とは、単に影響を受けた名作の一覧ではない。それらの作品を通して自分自身をどう読み替えてきたのかという、履歴そのものなのである。

in the blue shirt、okadada、長濵よし野「想像の体操~わたしの地層を考える~」受講の様子

同時に、自分自身を読み替える方法を左右するものとして、三人の会話は「欲望」についての議論へと向かっていく。よく耳にする「歳をとって昔ほど音楽を聴けなくなりました」という相談。しかし、それは本当に問題なのだろうかとokadadaは問い返す。体力が落ちたなら体力をつければいい。時間がないなら時間をつくればいい。けれど、本当は欲望そのものが変化しただけかもしれない。昔ほど音楽を聴けなくても、美味しいご飯に夢中になっているなら、それはそれでいい。欲望がそこへ移ったということなのだから、と。

okadada自身も、大学時代に周囲へ自分より詳しい人が大勢いることを知り、「音楽に詳しい自分でいる」という欲望を失ったという。有村は、それこそがokadadaの面白さだと語る。サブカルチャーを愛しながら、そこにルサンチマンがない。欲望が変化することを恐れず、その変化を受け入れていく。その姿勢が、新しい世界を受け入れる柔軟さにつながっているのだろう。

イベントの終盤、質疑応答では多くの問いが投げかけられた。中でも、「音楽ジャンルを理解するにはその背景文化まで知るべきか」という質問への回答が興味深かった。

二人の答えは明快だった。背景文化は知っていたほうがいい。しかし、それだけが正解ではない。文化的背景は作品を読むための一つの方法にすぎず、そこから別の読み方をする自由もまた残されている。

in the blue shirt、okadada、長濵よし野「想像の体操~わたしの地層を考える~」受講の様子

振り返れば、この日語られていた「想像の体操」とは、知識を増やす方法ではなかった。偶然を受け入れること。ひとつの作品を何度も読み替えること。そして何より、自分の欲望が変化しているなら、その変化を受け入れること。「わたしの地層」とは、蓄積された知識だけを指していない。それは偶然との出会いを受け止め、そのたびに自分の欲望を更新してきた軌跡なのである。三人の対話は、「想像の体操」が新しい自分を受け入れ続ける営みなのだと教えてくれた。

✧執筆者プロフィール

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つやちゃん
文筆家。カルチャー領域で執筆を展開するほか、企画や監修なども多数。著書に『星野源論』(新潮新書)、『スピード・バイブス・パンチライン』(アルテスパブリッシング)、『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』(DU BOOKS)など。インディペンデント・アーティストをサポートする一般社団法人 B-Side Incubator理事。